千夜千食

第35夜   2014年2月吉日

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白金の絶品蕎麦「三合菴」

今日は絶対一枚だけにしとこ、
という決意はいつもあえなく撤回。
東京でいちばん好きな蕎麦。

写真[4]

 長らく蕎麦とは縁のない人生だった。うどん県の生まれということもあり、大人になってからは関西で生活しているので、蕎麦はさほど身近なものではなかった。当然、旨い蕎麦の基準もわからない。蕎麦の世界は妙に哲学的で、「蕎麦を打つ」とか聞くとなにやら隠遁者の崇高な趣味のようでもあり、そのせいもあっていささか敷居も高かった。池波正太郎の随筆でだったか、蕎麦はたぐると表現されていたのも妙に気になっていた。

 そう、蕎麦はどうやらたぐるものであるらしいのだ。食べるでも、すするでもなく、たぐるという動詞を使う。【手繰る】とは両手で代わる代わる引いて手元へ引き寄せるという意味だ。転じて、蕎麦を交互に箸で持ち上げる動作をさし、こう言うことはわかったが、それにしても不自然な気がする。ザイルを手繰るならわかるのだが、蕎麦は片手で食べるものだしなあ。しかも、江戸前の蕎麦に限ってこのようにいうらしい。なんだか、ちょっといやらしい(笑)。スノッブ臭がぷんぷんするではないか。

 察するに、江戸っ子にとっての蕎麦は粋に食べなければいけないものらしい。長っ尻で、ゆっくり食べるのは野暮。店に入ったら「盛り」を注文し、ささっと手繰って、さっと店を出るのが粋なんだそうだ。もちろん、よく言われることだけど蕎麦をつゆにどぼっとつけるのもご法度である。うーん、江戸っ子の粋を体現するには私はまだまだ修行が足らぬ。それに、あまのじゃくなので、どう食べようがええやないの、という気もしてくる。ま、私は、江戸っ子でも粋でもなくただの食いしん坊なので、蕎麦だって自分が食べたいようにじっくりと味わいたいと思う。
 
 この店は、十年ほど前に知人から白金ならここがいいですよ、と教えてもらい、以来ときおり通っている。そして蕎麦を心底おいしいと思ったのは、ここの蕎麦を食べてからである。蕎麦というものはきわめて素朴な食べものだという先入観を持っていたのだが、ここの蕎麦は「端正」というにふさわしい非常に洗練された味わいなのである。
  
 東京には更科系、藪系、砂場系という厳然たる蕎麦の御三家というものがあるようで、そこに新興系と呼ばれるトレンド勢力が台頭してきて、今はそれらがほどよくミックスされた状態にあるらしい。(あくまでも聞いた話)こちらの店もあえて分類すれば、藪系の流れを組む新興系ではあるらしいが、ま、旨い蕎麦を食べるのに能書きなどどうでもいい。

 ここが大好きなのには三つの理由がある。ひとつは、もちろん「端正」な蕎麦そのものの旨さである。ふたつめは三千盛の純米を置いていること。最後に、うつわにもなみなみならぬこだわりが感じられること。

写真写真[1]写真[2]

 いわゆる挽きぐるみの十割蕎麦である。蕎麦の殻を取り除いたものをすべて製粉したものを挽きぐるみという。その蕎麦粉だけを100%使ったものを十割蕎麦という。これを打って、切って、茹でるのだが、そこに職人のちょっとしたこだわりや好みが入り、その店ならではのオリジナリティが生まれる。この店は少し細めの蕎麦なのだが、いつも蕎麦のよい香りと粉の微妙な食感がこたえられない逸格なのである。

写真[3]写真2

 三千盛は、何と言っても若い頃心酔した作家・立原正秋氏が愛した酒である。立原氏のご子息が経営していた懐石料理の店で初めて口にして以来のファンである。が、私の知る限り置いてある店がなかなか少ないのである。だから、ここでは私はこの銘柄一本をしつこ〜く楽しむことにしている。

 そしてうつわ。ここのセレクトとコーディネイトも私は大好きなのである。最初に、お通し三種が出てくるのだが、毎回持って帰りたくなるほどセンスのよい古伊万里や唐津のうつわに入ってくる。ぬたやおひたしが中里隆さんのうつわに入って出たかと思うと、玉子焼きはカジュアルな印判手の皿に載っている。このハイ&ローの取り合わせの妙もなかなかのものであるといつも痺れているのである。

 酒飲みにとっては、蕎麦屋の流儀はなかなか楽しいということもこの歳になって発見した。いきなり蕎麦、ではなく、日本酒をちびちびと飲りながら、ぬたや天ぷら、玉子焼きなどをやる。蕎麦はシメなのである。そして、最後はざるそばやせいろなどシンプルなものでシメるのが粋であることは重々承知していながらも、ついついとろろそばを頼んでしまうのだ。今日は一枚だけにしておこう。いつもそう誓うのだが、最初のひと口で、「すみません、お蕎麦をもう一枚お願いします」と言ってしまう。

 ああ、それにしても、ここのとろろ蕎麦。絶品である。馬鹿馬なのである。(しかし写真を撮り忘れている・・・)