千夜千食

第60夜   2014年4月吉日

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香川丸亀「永楽亭」

こんなところにこんなお店があったのね。
住宅街の中にひっそり佇む数寄屋で
歌舞伎と春の息吹を堪能する。

 ご縁があって、歌舞伎役者尾上松也さんと食事をご一緒した。もちろん熱烈なタニマチの方にお誘いいただいてだ。金比羅歌舞伎の後に食事と聞いていたので、琴平にそんな店があるのかと思っていたら、丸亀まで出るという。高松出身の私ではあるが、丸亀へは数回しか足を運んだことがない。子供の頃丸亀城に行ったのと、父がまだ元気だった頃骨董の売り立て会に連れて行ってもらったのと、猪熊源一郎美術館に足を運んだこと、あとうどん。ぜいぜいそんなものだ。だから丸亀の土地柄も知っているようで、実はほとんど知らない。だけど、わざわざ琴平から出向くということは、役者さんをご招待するような店があるということだ。そしてその店は看板を出しておらず、所在を知っているタクシーでしか行けないという。なんだか、わくわくしてきた。

 しかし、道のりはなかなか遠い。タクシーの運転手さんもたしかこのあたりと見当はつけているのだが、看板がないので周辺をしばしぐるぐるとまわり、ようやく到着した。暗くて外観の全容はよく見えなかったが、煤竹を外壁にあしらった和モダンな佇まい。ところが中は完全数寄屋風。通されたのは庭に面した堂々たるお座敷である。

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 松也さんご一行が来るまでに、私たちはシャンパンでも飲みましょうかとタニマチのマダムが誘う。シャンパン?私に異論があるはずがない。イチゴとドライいちじくをアテに、マダムとそのご主人と気分よく盛り上がる大人の時間。と、玄関が開く気配。ご一行が到着したらしい。やがて松也さんが入ってこられる。

 事前にマダムと、私たちはこことそこで、松也さんにはここに座ってもらうのがいいわね、でお弟子さんたちはこのへん、と席決めしていたが、座敷の入り口で正座して挨拶した松也さん、すっと立ち、迷うことなく私たちがここと決めていた席へおさまった。この見極め、さすがだと唸る。普通の人間ならお座敷での席順についてすったもんだするものだが、その場の人数、それぞれの役割を考え、本日の主役である自分の座る位置を瞬時にして判断する。若いのにまったく見事だとしか言いようがない。立ち位置というものがつねに決まっている歌舞伎の人だなと感心してしまう。

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 さて夕餉である。まずは、シャンパンで乾杯しつつ、筍の田楽を。木の芽の香りがすがすがしい。お造りは鯛。瀬戸内海でも四国側でとれたものをいただくのは久しぶりである。お椀は山菜のしんじょに立派な椎茸、ぜんまい。ほのかな旨味を感じるおつゆは関西仕立て。私がいちばん好きな味わいである。焼き物は鰆と筍。筍の瑞々しい渋味とクレソンの苦味を、鰆に使われた白味噌がまったりと和らげる。季節を競わせ、旬を合わせる心憎いアソート。揚げ物は可愛い色のあられを纏った山菜、もろこ、そら豆、シャキシャキの菜っ葉。蒸し物は鯛のしんじょに雲丹のあんかけ。この後シメには鯛ごはんが出た。(さすがに若い松也さんはおかわりを三杯もして、ますますファンになる。私は二杯)

 興行中の金毘羅歌舞伎昼の部で松也さんが演じているのは「菅原伝授手習鑑」<寺子屋>の武部源蔵。ただただ主君への忠義のために、その若君を守るために、まったく関係のない頑是無き子供を非情にも斬るという難しい役どころである。松也さんは源蔵についてはこれという決まった型があるわけではないので、それがやりにくさでもあるしやりやすさでもあるという。なるほど。<寺子屋>は独立して演じられることも多く、源蔵のキャラクター造形の難しさはよくわかる。全体のストーリーを知らず見た人は、なんと恐ろしく、なんと冷酷な、と思ってしまうに違いない。それだけに今日の松也さんの源蔵は、義と誠の間で揺れ動く心情がこちらにもしっかり伝わってきた。来月、文楽で「女殺油地獄」を観ると言うと、「それはとても面白い観劇のしかたですねえ。いいですねえ」と松也さんは文楽にも興味津津だった。歌舞伎では、役者が油を模した液体を威勢よく舞台にまいて、滑りまくるところが見せ場である。人形たちがどうやって滑るのか。「どうするんでしょうね」「想像がつかないですねえ」「まさか舞台に液体はまかないですよねえ」「やっぱり見てみないとわからないですね」エトセトラ・・・。本格的な懐石をいただきながら、歌舞伎について、はたまた同じ演目でも文楽だとどういう演出になるのかなどと役者さんと交わせるとはなんと贅沢なことだろう。

 誘ってくださったU夫妻に厚く御礼を申し上げる。