千夜千食

第160夜   2014年12月吉日

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都内某所「すっぽん尽くし」

不思議なご縁がつながって
憧れの数寄者につながる方の忘年会にお邪魔した。
めくるめくとはこういう一夜のことを言う。

 セレンディピティという言葉がある。何かを探しているとき、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力のことである。ふとした偶然をきっかけに、何を見つけるか。別の価値あるものも、気づいてみれば探していたものであったりすることが多い。大事なことは、それが目の前に来たときに、それに気づけるかどうか、である。気づかない人もけっこう多いと聞くから、ひとつの能力であるとか才能と言われるのかもしれない。

 さて、私は普段から寄り道したり、脇道にそれることが好きで、その結果、「これって、セレンディピティ?」という出会いは多いほうだと思う。だけれど、今回のセレンディピティは少し格別のものだった。

 12月吉日。この日はハイパー企業塾の帰りであった。いつになく荒れた回でもあり、うかうかしている間に三次会に参加しそこね、クールダウンしようといつもの白金の店へ寄った。隣に座っている男性の声が大きい。聞くとはなしに聞いているうちに、天皇問題についてあれこれと隣の連れらしき女性と話している。そのうち、彼はこちらに話を振り始めた。トピックスが天皇問題とあって、先程からうずうずしている。話を振られた瞬間から会話が止まらなくなった。詳しい内容は省くとして、地元でもこれだけ話題が合う人は、天皇バーのマスター以外にはいない。アウェイの東京でこんな話ができるとは。すぐに意気投合した。気がつけば、一時間半。古事記から日本書紀、出雲神話に伊勢神宮と、話はどんどん盛り上がっていく。やがて彼が「姐さんは焼き物とかも好きでしょ」と尋ねた。もちろん大好き、朝鮮のものや唐津などがとくに好きと言うと、ある人物の名を出した。もちろん知っているし、なにより本の愛読者であるし、彼に連なる人の熱狂的なファンである。すると、彼はその人物と友人であり、年末にその人の家での忘年会に誘われているのでよかったら一緒に行かないかと誘ってくれたのである。

 実にうれしい話ではある。が、いくら話が盛り上がったとはいえ、初対面の相手である。その人の友人宅へのこのこ伺うのは、いくらなんでも図々しすぎる。そのことを伝えると「こういう出会いも縁のものだから、気にすることはないですよ」ときっぱりと言う。翌日、「主催者の了承を取りましたので、遠慮せずおいでください」というメールが来た。縁のもの。そこまで彼がきちんと筋を通してくれたのなら、これは縁というものに乗っかってみよう。そう決意した。もちろん、好奇心の方が勝っている。

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 忘年会当日。突然の参加を詫びつつ恐縮しながらも、その人のサロンに伺った。「今日はすっぽんしかないですよ」と念を押されるが、とんでもない。すっぽん尽くしとはなんと贅沢な。異論などあるはずもない。席につくと、私以外は全員が男性であった。サロン中央にはどっしりと重厚感のある木のテーブル。その上にいかにも年代を経た風情の木の盆、盆の中には所狭しと酒器がのっている。ひとつひとつのうつわの説明を受けるのだが、ほとんどが桃山時代とか、戦国時代とか、もう私の骨董とは次元が違うものばかりである。おそるおそる手にした酒器は、桃山の唐津だという。主が片口に入った日本酒を豪快に注いでくれる。彼の右側には七輪があり、その上ですっぽんを焼いている。捌いたすっぽんの網焼きである。こんなの初めていただいた。日本酒と合うし、なによりこの漆のうつわだってただものではない。次に日本酒をいただいた酒器は、縁が欠けており、金継ぎも施されている。いや、厳密には欠けているのではなく、最初からこういうカタチなのである。「たぶん、灯心を入れるためのへこみじゃないかなあ。昔はこれに油をいれていたんだと思う」との説明がある。そして、これはじいさんからもらったものだと言う。じいさん、と無造作におっしゃるが、それは骨董好きで有名なあの偉大な方のことである。あのお方伝来の酒器なのである。

 この日は私以外、初めての参加という男性が二名おり、やがて宴もたけなわという頃合いを見計らって、それぞれが大事に抱えている桐箱を開ける。中には唐津のぐいのみや徳利が入っており、それを主をはじめとするゲストに見てもらうという趣向なのである。徹頭徹尾、うつわの話が中心なのである。

 ああ。こういう変態たちが本当に生息しているのである。今までは、小説やエッセイの中でしか知らなかった数寄者たちが、ほんとうにぐいのみや徳利をさすり、目を細め、実際に酒を入れ呑みながら、実に幸せそうに、そのブツを慈しみ、愛おしんでいるのである。こういう世界が、本当にあるところにはあるのである。しっかりと息づいているのである。

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 そういう話を交わしながら、主は酒を注ぎ、傍らの七輪に鍋を乗せ、すっぽんを調理する。漆のうつわた古瀬戸のうつわに無造作にすっぽんを投げ込んでくれる。そのうち、サンマを豪快に炙ったものも出され、主はいつのまにか七輪の上で魚を焼くための網を持っている。そして気がつけば、すっぽんのエキスがたっぷり入った雑炊まであっという間に作っているのである。

 口福だけでない、眼福をたっぷりと味わった一夜であった。

 まっすぐ帰らず寄り道して、天皇話で盛り上がり知り合った人(この人は映画監督であった。作品を一本観たが、とてもいい映画であった)がつくってくれた不思議なご縁。これをセレンディピティと言わずして、何と言おう。

 この日、誓ったことがある。本当にほしいと思ったものは、やはり買わないと自分の身にはつかない。そのことを痛いほど実感した。そして、敬愛する白洲正子さんのことを想像した。白洲さんは、かつて小林秀雄と青山二郎の丁々発止の骨董談義に圧倒され、それについていきたくて、負けたくなくて、いつかは彼らをアッと言わせたくて、骨董の世界に飛び込んだ。その日の白洲正子さんの気持ちが、ほんの少しではあるが、この夜私もわかったような気がした。まだまだ端くれである。いや、端っこにも手が届かないレベルであろう。だけど、いつか再び、清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟で買ったものを手にこちらにお邪魔する日を夢みたい。そういうものに日本の何処かで出逢うセレンディピティを期待して。