大阪新地「斗々屋」
まったく予備知識なく伺ってみたが
料理も、雰囲気も、よい具合に熟れていて
こういう佇まいは一朝一夕には醸し出せないと感じ入る。
新プロジェクトの決起大会。俗にいうキックオフのための店がなかなか予約できない。第一候補にも第二候補にも振られ、ご一緒する人のことを考えるとやはりしかるべき和食の店が理想なのだが、ううむどうしようと片っ端から電話をしていたら、ここが運良く取れた。
誰も行ったことがないし、噂を聞いたこともない。店がある場所と名前に賭けてみた。
斗々屋というのである。たまらない名前ではないか。
ここから真っ先に連想するのは、斗々屋茶碗であろう。斗々屋(ととや)は魚屋とも書き、文字通り魚屋の棚にあったのを利休が見出したとか、堺の商人斗々屋が所持していたのにちなむとも言われている。要は、高麗茶碗の一種で、土肌のざらりとした風合いのあるかなりシブい茶碗である。私は伊羅保とか斗々屋のような、興味のない人から見たらただの汚い茶碗に思えるようなシブい枯れた風情がめっぽう好きなのである。
店に斗々屋とつけるくらいだから、ここはきっと私好みである。期待を胸に新地に向かった。
期待に違わずシブい入口。のれんの上には注連縄がかかっている。竹矢来の風化具合も、時代がかった味わい。屋号の文字も墨跡のような素晴らしさ。中に入ると、飴色に変化した壁面や天井などが無言で迫ってくるような心地。かといって、決して威圧的ではなく、むしろ枯淡の趣がある。
初っ端からまいった。いや、日本酒の徳利と猪口である。赤玉の赤絵はけっこう時代ものだし、また猪口がシブいったら。これ、萩だろうな。ご一緒している人もうつわ好きなので、目を細めている。最初に出てきたのは、筍とうど、イカ。きれいな色の木の芽のたれでいただく。そして、花見団子に模した鮨。かぶせてある桜の葉をはずすと、ご覧の可愛らしい手鞠鮨があらわれるという仕立てである。しかもお皿は都をどりの団子皿。うーん、なんとも粋な演出ではないか。都をどりとは、この時期京都にある祗園甲部歌舞練場で催される舞踊公演で、京の春の風物詩になっている。この団子皿、歌舞練場の茶席で出されるもので、色は5色あり記念品として持って帰れるのである。串に刺さった団子がつながった意匠は、歌舞練場の提灯と同じものなので、わかる人にはわかるという趣向。なかなかスノッブなはからいであるが、こういうの決して嫌いではない。
団子皿で盛り上がっていると、今度は粒雲丹が出される。これをちびちび舐めながら、酒もちびちび。すると即座に釧路の雲丹もやってくる。続いてお造りがもう一品。龍が描かれた赤絵に乗っているのは、目板鰈の縁側、鯛、赤貝、ハリイカ、たいらぎである。いやん、海の幸三連発、いいねいいね。
メインのお椀はぐじと筍である。ぐじ(甘鯛のことを関西、とりわけ京ではこう呼ぶ)の旬は秋だと思っていたけれど、これはこれで脂がのっている。たいそう、よい按配である。ひと息ついたところで、春キャベツとホタルイカを酢味噌で和えたもの、そして海そうめんもずくが出される。いいよね、こういう酢の物。ホッとする。
焼き物はキンキ。もうほんとにこの魚ったら、なんでこんなに美味しいのだろう。気持よくほろりと骨離れがよく、それでいてむっちりと官能的な味わい。魚好きなので、ひたすら黙々と箸をすすめる。焼き物は何種類かの中から選べ、向かいの人はアワビをセレクト。これも美味しそうである。
〆の食事は、筍ごはん。麦藁手の茶碗に、おこげの色が映える。これも、視覚効果を計算しての演出だろうかと思うほどの美しさ。
相客と何度も、「いやあ、この店いいね」「シブいですね」と話する。奇をてらわない、高いクオリティの正統派料理。それを、押し付けがましくもなく、主張するわけでもなく、実にさりげなく、きわめて淡々と供している。ご主人はこの道何十年といった雰囲気を醸し出している。きっと店を開いたときから、こういうスタイルでずーっとやられているのだろう。大阪新地のシブい懐石。うん、いい店を見つけたもんだ。また、ぜひ。