春卯月の「一柳」
鮨の暦では、今は貝のシーズンでもある。
四季がなくなってしまったとはいえ
カウンターにはちゃんと小さな春がある。
鮨のために働いている。
なので、月一回は頑張ってここに来る。来たいと思う。
春卯月の一柳。
最近は気候そのものが大きく変化しているので、海流も変わるし、漁場であがる魚の種類も大きく様変わりしているとは聞く。だけど、やはり春の到来を何よりも雄弁に告げてくれるのが、貝たちの存在である。年間を通じて築地にないものはない、と言われてはいるけれど、この季節の貝の充実はやはりこの季節にしか味わえない。
いま、最高に甘くなるのが、とり貝である。
鮨歴もずいぶん長いが、昔は生のとり貝など滅多に口にはできなかった。流通の問題がいちばん大きかったではあろうけど、産地でしか食べられない貴重かつ高価なネタでもあった。それが、あたりまえのように流通しはじめ、食べ慣れるにつれ、このみずみずしい食感をしみじみおいしいと思うようになってきた。そのとり貝が、まさしくただいま旬真っ盛りである。大将が、パン、パンッと俎板にたたきつけ、皿の上に置いてもまだ動いている。その躍動を箸でからめとって、スッと口に入れる。ぷりぷり。しゃきしゃき。いや、しゃくしゃくか。そして冴え冴えと甘い。海の恵みがもたらしてくれるその甘さを噛みしめながら、三千盛のきりりとした辛さをときおり流し込み、春の甘辛をゆっくりと楽しむ。乙だね。至福のひとときである。
ところで、去年だったか夏真っ盛りにも、たいへんに立派なとり貝がお目見えしたことがある。「え、まだとれるの?どこの?」と聞けば、「京都」という答え。「え?京都???」関西人にとっては京都=京都市なので、アタマの中に???が三つくらい並んだ。「京都の上のほうです」に、ああそうか、宮津とか舞鶴の方ねと合点がいく。厳密に言えば、彼の地も京都府である。
正式には「丹後のとり貝」と言うのだそうだ。もはや立派なブランドである。丹後のおだやかな海の中で、夏になってもプランクトンをたっぷりと食べどんどん大きくなっていく。普通は大きくなるにつれ大味になっていくものだが、丹後とり貝はどんどん厚くなり柔らかさを増し、独特の甘みをいっそう深めるのだそうだ。漁獲は5月から7月のあいだ。チャンスがあればぜひトライしていただきたい味である。
この日のハイライトはもちろんとり貝であったが、ツマミで出された蛤も忘れがたかった。いわゆる煮はまである。昔の関西ではほとんど出てこなかったので、今も煮はまはそんなに好物というわけではないのだが、やはり初っ端に出されると「ああ、春なのね」と巡る季節を思う。ただ、漫然と鮨を食べていてはいけないと思うのはこんなときである。素材のひとつひとつに旬を感じ、季節の移ろいを愉しむ。こういうのこそ本来の日本力の基本の基本だろうけど、鮨のためにはたらいていると嘯いてはいても旬をちゃんとわかっているかと言われれば胸を張れない私がいる。
まだまだ鮨も、人生も、修行中である。