千夜千食

第23夜    2014年1月吉日

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福岡「吉富寿し」

ご主人の優しく柔和な佇まいと
うつわも含めた趣味のよい和のしつらえに
気持ちよく酔える博多前鮨。

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 最高のファーストインプレッション。偶然が重なり、こちらを最初に訪れたときのことだ。四年前の夏だった。外観がそれとはわかりにくいのでさんざん探しあぐね、ようやく見つけて中に入った。物腰の柔らかなご主人が、「いらっしゃい。おなかすいたでしょ」とにこやかに微笑んだ。はじめての店ではこちらもそれなりに身構えており緊張感があるものだが、ご主人のこのひと言で気持ちがすーっと店になじんだことはよく覚えている。

 古民家を少しずつ改築、改装し、古い建具なども効果的に使い、趣味の世界をしつらえている。数寄者の離れを訪れたような独特の佇まいは、私の数寄ともかなり一致する。その空間に古伊万里や唐津、李朝の壷や皿だけでなく、パリの蚤の市で買ったというデルフト風の白い皿などをミックスさせた感覚は、そうとうなうつわ数寄であると見た。鮨は玄界灘や対馬沖でとれた魚にほどよく仕事をした独特のもので、「美味しいですね」と言うと「博多前ですからね」と誇らしげな表情。

 博多前。その言葉はマジックワードのように私の記憶に刻まれた。

 江戸前とは、文字通り江戸の前にある湾でとれた魚介類を使うことを指す。本来は漁場を示す言葉であったというから、博多前という言い方は間違っていない。博多前、大坂前、兵庫前、加賀前、讃岐前、備前前・・・・。全部正解だ。むしろ、そういった名称を冠すれば、その土地で昔から親しまれている魚の種類や食し方も際立つし、その土地なりの豊かな色が出るのにと思ったぐらいである。

 今回は久々にその博多前である。鮨はもちろんだがあの柔和なご主人にももう一度逢いたい。ところが長いあいだ、博多を訪れても夜食事をする機会が見つからなかった。今回、日曜の夜の松岡師匠の講演会に行くと決めたとき、週末だしどうせなら金曜から行けば吉富に行けるということに気づき、決行することとした。

 四年のブランクがある。だけど、店に入ったとたん、ああこの空間だったな、と確かに思う。懐かしいような妙に落ち着くような居心地のいい空間は健在である。前と同じカウンターのいちばん右端に座る。余談だが、鮨屋ではカウンターの端っこが大好きである。

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 突き出しに出たのはふぐの煮こごり。むっちりしたゲルの中に強靭な歯ごたえの皮が潜んでいる。そのタフな感じはさすがに九州に来たという実感があり、にやり、とする。続いて、焼き穴子、鮟鱇の肝。たこのやわらか煮。どれもていねいかつ繊細な仕事がしてあり、ご主人と同じような優しい空気をまとっている。酒もぐいぐい。ここで、もう一度ふぐの煮こごりを所望するも、すでに売り切れ。こういうの無粋なんだよな、きっと。でもそのかわりに出してくれたのは、よこわ。厳密に言うとつばすとよこわの間くらいの大きさで玄界灘でとれるのだという。ういういしい脂の乗りかたはさすがに近海もの。刻んだ大葉との相性もよろし。またしても酒が進む。そうこうしているとあたたかな一品が出された。そろそろ握りのタイミングである。

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 前回来たときは夏だったが、今回は豊穣の冬。のどぐろの炙りとふぐ、そしてアラが一緒に食べられるのは北九州エリア以外ではきっとかなわない。アラを食するのは今回がはじめてだったが、こりっと淡白なのに噛み締めるとじんわり滋味がある。同じような魚にクエというのがおり、よくクエとアラは同じであるという人もいるが、厳密には別の魚であるらしい。初心者の私は、まだクエもアラも味の差異はよくわからないが、荒々しい玄界灘で培われたであろうアラの手強い身の締まり具合が瀬戸内海の鯛のそれとはまったく別物であることはわかる。どうや、食べてみ。食べるからには、ちゃんと噛みしめなあかんで。そうアラが挑んでくる感じ。頑健な歯を持っていてよかったとつくづく思った夜である。

 さすがの博多前。今回もいろいろ勉強させてもらった。それにしても、やっぱり関西やお江戸で食べられないネタがあるから、いろんなところで鮨に行くのはやめられないのである。