千夜千食

第154夜   2014年12月吉日

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夙川懐石「直心」

美味しい魚が次から次へ、手を替え品を替え・・・
名づけて、「魚のこれでもか攻撃」。
これ、魚好きにはこたえられない嬉しさなんである。

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 ああ、また一年が巡り、誕生日ディナーがやってきた。そう、親友と互いの誕生日を祝うお食事会である。この店はいつも候補に入っている。今の場所に移転するまではJR西宮の駅近くの庶民的なエリアにあり、初めて行ったときその端正な料理と店全体の凛とした雰囲気にすぐさまファンになったことはよくおぼえている。そのうち、評判の店になり予約も取りにくくなり、ミシュランが関西に上陸するとあたりまえのように星を取った。今は、夙川の山の手の住宅街のなかに、それとはわからないような風情で佇んでいる。

 今回は私が招待する番である。自分も楽しみたいので、鮨か和食という狭いセレクトの中でいつも考える。真っ先にここに電話して予約した。こちらは懐石ではあるが、ほとんど魚しか出さない。しかもけっこうストレート勝負で連打する。これが、たまらないのである。

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 季節は12月に入ったばかり。関西でこの季節の蟹といえばせこがに、である。ご存知、ズワイガニの雌で、せこがに、せいこがに、香箱がに、などいろいろ呼び名はあるけれど、まあせこがにというのがこのへんでは一般的である。これはもうズワイガニが解禁になると、真っ先に食べたい海の幸で、わざわざ身をはずし、内子や味噌なども食べやすく混ぜてあり、丁寧なものだと足の身なども一緒に美しく盛ってくれる冬の至宝ともいうべき一品である。これがいきなりカウンターパンチのように出されるのである。まことに、誕生日ディナーにはふさわしいひと皿、アミューズというべきか。

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 お造りもこの店はひと皿では終わらない。まずは、淡路の蛸、北海道の雲丹が渋いうつわに盛られ出されたかと思うと、今度は琵琶湖で穫れたわかさぎの南蛮漬け。お椀は貝柱のしんじょにかぶと若布。この後に、鯖の棒鮨とインドマグロのお造りが出されるのである。色絵のうつわに乗っているのは淡路の石鯛。続いてイクラもやってくる。蛸、雲丹、わかさぎ、貝柱、鯖、マグロ、イクラ・・・通常であればメインのお椀の後に、お造りという順序であろうが、もう何がメインなのかわからないくらいの魚攻めなんである。

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 イクラをいただいた後はブリの幽庵焼きである(写真を失念)。こんなに魚尽くしで、すでに日本酒(こちらも写真を失念)をそうとういただいている。そうこうしていると、今度は白子である。うふふ。あっさりした鍋仕立てにしてあり、これでちょっと休憩。というかほとんどここまででももうじゅうぶんな感じなのであるが、ここから意表をつく天ぷらが始まるのである。しらさ海老。大阪湾でとれる活け海老で、芝海老より大きく、甘みがある。もちろん天ぷらにすると、その甘みがいっそう引き立つ。続いてブロッコリー、立派な椎茸の天ぷらをいただき、そろそろ〆へと向かう。

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 ごはんは、石鯛やあこうのカマの部分を炊いた炊き込み御飯。鯛めしと言ってもいいだろう。鯛の旨味がぎっしりつまっている。一杯だけにしておきたかったが、「おこげもありますよ」と薦められると、断れない。おかわりせずにはいられない。また、そのおこげが旨いのだ。馬鹿馬である。

 ここのご主人、よっぽど魚が好きなのだろう。その季節の旬をいろんな調理法で食べさせてくれる。魚好きとしては、もう喉を鳴らしたいほど幸せにしてくれる店なのである。もちろん、うつわのセレクトも私好みである。

 いつだったか、家の近所のうつわ屋さんと話をしていて、こちらの店の話題になった。ある日評判を聞き食べに行ったら、出されるうつわや棚に並べているうつわに見覚えがあるのである。たしか大昔に売った覚えがあるような・・・そしてご主人の顔を見たとき、はっきりと思い出したそうである。大昔、給料日のたびにうつわを買いに来ていた若い見習い料理人のことを。その料理人こそが、ここ「直心」のご主人だったのである。いい話ではないか。そして、腕に覚えがあって、いつかは自分の店を持ちたいと思っている料理人は、みな若い修業時代から少しずつうつわを集めているのである。こういう心意気も、よい料理人の資質のひとつではないかと思う。これはどんな仕事にも言えることであろうけど、若いときからどれだけ身銭を切って、自分に投資できるかはとても大事なことだと思う。それは、自分の将来をおぼろげながらでもイメージできるかどうかにかかっている。私も思い起こしてみれば、若い頃からずいぶん身銭を切って来た。そうして投資してきたものが今やっと少しずつ身について、だからこそ今があるとも思うのである。