京都祇園「千ひろ」
夏の京都のご馳走は、鱧に、鮎に、琵琶湖の鱒。
走りの松茸も登場し、それはそれは豪華な季節の競演。
祇園祭が終わって五山送り火までの、束の間静かな古都で。
年がら年中賑わっている京都ではあるが、私が秘かにシーズンオフだと思っている季節がいくつかある。ひとつは、祇園祭が終わって五山の送り火が始まるまでのわずか二週間、もうひとつは紅葉が終わり年末にさしかかるやはり二週間ほど。兎にも角にも暑いのと、底意地が悪いとしか思えないほどの底冷えがするという、どちらも観光にはあまり適さない時期である。が、ちょっと歌舞伎を観に行って帰りにごはんを食べるとか、古門前や二条あたりで骨董屋をのぞきたいとか、寺町の三月書房でマニアックな本を探したいとか。この時期を選べば、道路は空いててタクシーはすいすい走るし、修学旅行生も集団の観光客もほとんどいないのである。せっかくの古都を楽しむのに、誰もわざわざこんな季節に来ようとは思わないのである。神戸から日帰りで行くには、それがちょうどよい。
この店に行くのはは、たいてい南座とセットになっている。歌舞伎が終わってから直行するというのが近頃のパターンで、ご主人も「観て来たんですか」といつも尋ねてくれる。で、猿之助(亀ちゃん)など観て来たと言おうものなら、その後いかに先代の猿之助が素晴らしかったかという話になる。なにしろ、祇園育ちのご主人である。子供の頃から歌舞伎を観ているので私なんぞとは年季が違うのである。京都が恐ろしいと思うのはこういうときである。たいていの祇園の店には、南座のポスターはむろん、芸妓さんや舞妓さんの千社札やうちわ、都をどりなどのポスターが必ず貼ってある。彼らにとっては、祇園のお茶屋も歌舞伎も日常なのであって、特別なものではない。代々続いている店に生まれたならば、子供のときから南座に連れて行かれるし、年頃になると祇園のお茶屋にも行くのであろう。歌舞伎の話ができてあたりまえの環境なのである。ほかの土地ではなかなかこうはいかないし、こればっかりはお金では買えない文化資産とでもいうものだろう。
さて、観光はシーズンオフではあるが、食材は旬のオンパレードである。
まずは蓴菜、雲丹、穴子、きぬさや、湯葉、パプリカ、椎茸のカクテルゼリー。こっそり入っている丸いのは、なんとデラウェアである。そう来たか、と唸る。フルーツをさりげなく忍ばせるというのはこの店のお家芸なのである。続いて、お盆に小皿を乗せた楽しいスタイル。左から時計回りに、鱧の子、鯛、松茸とおじゃこ、鯛の子のゼリー寄せ、枝豆のすり流し。これを肴にちびちびと日本酒を飲るのである。そして、鱧の造り。初めていただいたとき、鱧を刺身で食べられるなんてと感動したことはよく覚えている。関西でも鱧はやはり湯引きが定番で、刺身を出す店は少ない。ご主人が鱧の骨も一緒に細かく切る音を聞いていると、ああ千ひろの夏だなとしみじみ思う。骨切りされた刺身は、何ともいえない歯ごたえである。丸い輪っかは、鱧の浮き身である。コリコリしたグミのような質感だ。これもここで知った部位である。こちらの刺身は、お醤油でも、細かく刻んだ塩昆布でも食べられる。こういったスタイル、近頃ずいぶん多くなって入るが、こちらはこれが昔からの流儀である。お造り二品めは炙ったトロ。底にすった山芋が隠れてい、これにのりをはさんで一緒に食べるのが好きである。
真打ちのお椀は、まさしく季節の先取り。鱧と松茸である。この組み合わせ、昔は夏を惜しみながら、来る秋の豊穣を連想させたものだが、最近は松茸が早く出回っているのか、夏の盛りでも食べられるようになった。食いしん坊にとってはありがたいことである。焼物は鮎。いつも笹の葉を描いたこの皿で出される。右端に添えられたのは煮たバナナである(これもなかなか)。白いのは湯葉に絶妙な味わいの出汁を足し漉してとろとろにしたものである。で、この中には、桃が隠れている。桃のみずみずしい甘みと、まったりした湯葉の味わいが、ひとつに溶け合うセクシーさ。揚げ物は贅沢にも松茸のフライである。うん、松茸って何をされても、ちゃんとその存在感ある香りは失われないのね。すだちをキュッと絞って、さくさく食べる。そうしてまたまた焼物は琵琶湖の鱒である。希少な魚である。独特の香りはやはり京都人が愛する琵琶湖産ならではなのだろう。最後はこれも名物の焼きなすである。胡麻と海苔をたっぷりかけて。〆の食事は鮎ご飯と冷たいお味噌汁。本日も大満足。
鱧、松茸、鮎、鱒。鱧の子、鯛の子、雲丹。たまりませんなあ、この素材。シーズンオフの冥加である。