千夜千食

第12夜   2014年1月吉日

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懐かしの「オニオンスープ」

ずっと封印されていた遥か昔の舌の記憶。
最初のひとくちで瞬時によみがえった。
時を経て、あの懐かしい味を啜る。

グラチネ2th_バルサ1グラチネ1

 オニオンスープを始めて飲んだのは、たしかもう40年近く前のことである。場所は旧軽井沢。ものすごく洗練された雰囲気の店で、内装も給仕してくれる人も上品オーラを放っていたような気がする。たしかデザイナーの水野正夫さんのアトリエが二階にあったように記憶している。まだ私は10代だったから、一生懸命背伸びして、かしこまっていた。その店でオニオンスープを口にしたのである。

 いや、その店ではオニオンスープのことをオニオングラチネと呼ぶのだった。

 グラチネ。なんというスノッブなひびきだろう。

 グラタンのフランス語読みである。まだパスタは出現しておらずスパゲティナポリタンとかミートソースしかない時代だ。オニオングラチネというひびきがもうたまらなく舶来感満載で、そこへ持って来て香ばしいタマネギの風味とグリュイエールチーズの食感は、昭和50年初頭では衝撃ともいえるものだった。以来、いろいろなところで試してはみるのだが、日本ではどんな店でも軽井沢のそれには及ばない。もちろん、初めて出会った味というのを差し引いたとしても、タマネギの焦がし方、チーズのボリューム、うつわの年季など、それを超えるものには出会えなかった。

 あれから40年近く。懐かしいオニオングラチネとニューヨークでついに出会うことができた。店の名は、バルサザール。SOHOのフレンチビストロとして予約がとりにくい人気店である。何気なくメニューにあったので、つい懐かしくなり注文してみたら、ビンゴ。たちまち記憶の奥に眠っていたあの軽井沢のオニオングラチネがよみがえってきた。まずは、ボリュームが凄い。小食の人ならこれでおなかがいっぱいになるほどのポットの大きさ。タマネギもたっぷり、グリュイエールチーズもどっさり。あまりのおいしさに、スプーンを口に運ぶのに夢中になり無口になる。以来、ニューヨークに行けば必ず訪れる店になった。そのうち、好きが高じて、バルサザールの斜め前にあるホテルに泊まるようになった。クロスビーストリートホテル。全室禁煙で普通の部屋にはバスタブがないという不便を差し引いても、目の前にオニオンスープもといバルサザールがあるというのはなんと魅力的なことか。あるときは、朝ご飯を食べに行き、オニオンスープはランチタイムにならないと提供できないと言われ肩を落とし、あるときのランチは満席でぐーぐーいうおなかをなだめつつ3時半スタートでもいいとテーブルを空くのを待つ。さほどに恋い焦がれているオニオンスープなのである。

 ところが最近東京でちょくちょく顔を出す白金のフレンチビストロでバルサザールに遜色ないオニオンスープに出会った。しっかりと炒められたタマネギだけが出せる香ばしいあの旨み。コンソメの塩加減もバターの風味もしっかりしている。もちろんチーズもグリュイエールを惜しまずたっぷり使っている。日本であの味が食べられるやんか!!もう小躍りものである。だが、どうやら冬限定メニューであるらしい。こちらもそれなりのボリュームなので、本当にお腹がすいているときだけいただくとしよう。そう心に決める。だけど、好きなものが行きさえすればいつでも食べられるとわかるのは、無上の喜びと安寧を精神にもたらしてくれる。