2014-09

天皇バーの「おでん」

 家の近所にある天皇バー。もう20年以上通っている。なんで天皇バーというのか。

それは、

じんむずいぜいあんねいいとくこうしょうこうあんこうれいこうげんかいかすじん・・・・・。

神武綏靖安寧懿徳孝昭孝安孝霊孝元開化崇神・・・はい、わかりますね。天皇初代からの諡名。これを最低でも10代以上入り口で言わないと入店できないというルールがあるからである。垂仁景行成務仲哀応神仁徳・・・いや、これは嘘(笑)。しかし、私はここのマスターによって、愛国思想に火をつけられ、古代史への飽くなき興味を持つようになったのである。天皇制という日本独特のシステムの意味を日々考えるようになったのである。もともと好きではあった。だが、この店によって、その好きが盤石の好きになったのである。

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 そのマスターが冬になるといろいろ仕込む。そのひとつがおでんなのである。定番は厚揚げ、こんにゃく、大根、玉子など。で、仕入れによってここに、和牛のすじ、豚足などが加わるのだ。最近はカマンベールチーズなどもある。このおでんが、またラガブーリンによく合うのである。おでんのキモといえるのがだしだと思うが、マスターのつくるだしは甘すぎず辛すぎず、薄すぎず濃ずぎない絶妙ともいえるバランスの上に成り立っている。私の気に入りは、玉子(これは外さない)、厚揚げ、大根(あるいはこんにゃく)、そしてすじというラインナップ。小腹がすいてきた夜12時頃。家に帰る前についついバーに上がる階段をトントントンと上がってしまう。まずはラガブーリン。そして、おでん。当然最後の汁までずずいとしっかり飲み干す。

 おでんを注文する客が少ないと、へんこのマスターはすぐに仕込むのをやめてしまうので、おでんのシーズン中常連は継続しておでんを味わうために、無理してでもおでんを食べるのである。

 おでんって、ほっとするよね。

2014-09-30 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

お気に入り「モレスク」

 この店に連れて来てくれたのは小学校の同級生K君である。昔からよく行っているくつろげる店だという。いっぺんで気に入ってしまった。食事がおいしいだけでなく、シャンパンやワインもグラスでいろいろ飲める。何より、食後そのままバータイムに突入できるほどウィスキーも充実している。私のお気に入りスコッチも置いてある。そのうえ煙草も吸える。申し分ない店なのである。二度目に訪れたとき、オーナーが私の顔を見るなりにやりと笑い、「ラガブーリン」をカウンターに置いてくれた瞬間にこの店の常連になろうと誓った。一度の来店で顔だけでなく好きな酒を憶えていてくれる。できるようでなかなかできないプロの接客だ。痺れる。以来、東京に何日か滞在するときは、必ず立ち寄る店になった。

 ここの素敵なところは、季節ごとに旬のものをうまく取り入れたメニュー構成と、お腹の具合に応じてハーフポーションにしてくれたり、何品か盛り合わせにしてくれたりと融通無碍な対応をしてくれるところである。

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 この日の入店は10時頃。あまり食べてはいけない時間帯に入ってはいるが、魅力的なメニューを黒板に発見してしまった。まずは、きのこのチーズオムレツ。しいたけとしめじにパルミジャーノがからんだとろとろの卵。視床下部を強烈に刺激し、次なる一品へと向かわせる悪魔のプレリュードである。次は大好きな冬のメニュー、オニオングラタンである。これは、例の軽井沢からニューヨークへとつながりまた白金へと戻ってきたあの味である。本当はここでストップすべきではあったが、白子のムニエルという文字をすでに発見してしまっているのでたまらず注文。「半分にしときましょう」と言われると、力なく「え〜」と言うしかないのだが、台にマッシュポテトを敷いてあり、表面をカリカリにソテーした白子がぷるぷると舌の上で震えるのである。卵、チーズ、白子の三重奏。〆にパスタなどの炭水化物を注文するのは、さすがの私もいかんと思いとどまった。

 ちゃんと食事をする時間帯に来ようといつも思うのだが、夜遅く来ても食事ができるのが魅力で、この店はこのところ夜遅めの食事をする場所になっている。

2014-09-29 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

やっちゃった「丸かぶり鮨」

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 陰謀というのは少し言い過ぎた(笑)。しかし、この恵方巻きという習慣、いつ頃から定着したのだろう。

 ウィキペディアによれば、平成10年にセブンイレブンが全国発売するにあたり「恵方巻き」とネーミングしたことで一気に広まったらしい。それまでは、「丸かぶり寿司」と普通に呼ばれていたのだという。たしかに20年ほど前から、スーパーや大衆的な鮨屋に貼られたポスターなどで、ひそかにキャンペーンは行われていた。が、もともと季節の風物というものでもなく、バレンタインデーと同じ感覚で仕込まれたイベントであろう。知ってはいたが、だからといって、試してみたことはなかった。

 ただし、丸かぶりというのはとても魅力的な行為である。丸かぶり。丸ごと。丸った食いというのに子供の頃から憧れてはいた。なにしろ、丸ごとものを食べるのはずっと禁じられてきた。お歳暮やお中元でいただいたカステラを親が切り分けるのを見ながら、ああ一本好きなだけ食べられたらどんなにいいだろうかとか、デコレーションケーキも一度丸ごと食べてみたいとどれほど思ったことか。だから、大学を卒業してひとり暮らしを始めたとき、よくやったのはケーキのホール食いである。当時はモロゾフのチーズケーキやアップルチーズケーキをよくホールで買った。スイカなども一個思い切りよく買ってきて半分に切ってスプーンですくう。アメリカのテレビドラマや映画でよく出てくるアイスクリームの大容量カップも何度か試してみた。懐かしのカステラ一本食いだってもちろんチャレンジ済みだ。だけど、巻き寿司だけは未経験だった。普通すでに切り分けられている。ホールの巻き寿司は家で巻かない限り、なかなか探せない。しかもそれを丸かぶりするのである。

 そのどちらかといえばお上品な行為を堂々とできる日がやってくるなんて。

 JR大阪駅のイカリスーパーに、その巻き寿司はあった。切っていない一本丸ごと。思わず手に取り会社に向かった。昼休み。ネットで今年の恵方を調べ、そちらを向いて巻き寿司にかぶりつく。食べ終わるまでしゃべってはいけないというルールがあるらしいのでこっそりとやる。だけど、誰も気づいてくれないし、面白くもなんともない。こんなのは、誰かと目配せしながら、笑いをこらえながらやるもんだよね。

2014-09-28 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

唐津「銀すし」

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 唐津でお鮨に行くのと言うと白金ビストロのオーナー福島さんが、「唐津なら銀ちゃん行かなきゃ」と言う。当たり。その銀鮨をちゃんと予約していたのであった。福島さんは博多の「吉富寿し」もよく知っていた。鮨の好みが合う。

 噂では、銀ちゃんとこはすべて中里隆のうつわで出され、鮨は鮨で独特の旨さがあるらしい。予約は正午。朝、博多を発って、宿に荷物を置いた足で、銀ちゃんの店近くまで来た。ところがその住所に赴くとこんなところにお鮨屋さんがあるの?といぶかるくらいの閑散さ。しかも少し早めの時間だったせいか、店の引き戸は押しても引いてもびくともしない。

 時間まで近所をうろうろすることに決め脇道に入り、諏訪神社というのを発見した。秀吉が朝鮮出兵のため名護屋城に向かう途中、戦勝祈願のため参拝した神社とも言われているらしい。ご祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)、諏訪前命(すわまえのみこと)。時間つぶしに立ち寄ったことを後悔するくらい立派なお社である。建御名方神といえば、軍神としてつとに有名であらせられる。しかもここの砂にはマムシ除けのご利益もあるらしい。しっかりとお参りしたのは言うまでもない。

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 よくよく考えてみれば目の前に広がるのは玄界灘。鮨好きにとっては対馬海流があるせいで良質の漁場であるという認識がある。が、それよりも何よりもかつてここから秀吉が、もっと古くは神功皇后が新羅出兵したというその海が横たわっているのである。対馬の先はもう朝鮮半島。実際にこの地に来てみると、玄界灘を擁する福岡から佐賀にかけての海岸エリアは、半島から見ると日本の正面玄関のような位置であることがよくわかる。見方を変えれば、ここが辺境だなんてとんでもない。むしろ、表玄関なのである。建御名方神からそんなことを連想しながら、ぶらぶらと散策する。境内ではもうすでに白梅がほころんでいた。

 やがて正午となったので、ゆるゆると「銀すし」に向かう。今度は引き戸はするりと開いた。中は白木がすがすがしい清冽な佇まいである。銀座や赤坂にありそうな高級感も漂っている。うーむ、このインテリアは侮れない。やがて女性がコートを預かってくれ、席へと誘ってくれる。この日はどうやら私ともう一組だけのようだった。しばらくして大将と呼ぶには若い雰囲気のご主人が登場。銀ちゃんである。

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 中里さんの端正な白いうつわで出されたのは、菜の花のおひたし。ビールを注いだ焼き締めも、日本酒を入れた片口もぐいのみももちろん中里さんの手になるもの。削いで削いだかたちに、力強い素朴さがみなぎっている。こんな酒器で毎日晩酌できたら、しあわせだな。なにより気持ちよく手になじむ。この日は魚が少ないらしく、つまみはなしですぐに握りが出された。二貫ずつ。握りは小ぶりで細身。そこへまとわりつくようにネタがかぶさっている。口に入れると、軽く、ほろりとほどけ、ネタとシャリが渾然一体となる不思議な食感。ネタの厚みとシャリの量、そして握るときの手加減がそうするのであろうか。うーん。なんとも味わい深く、やさしく、ほっこりとさせてくれる。口福とはまさしくこんな感覚ではあるまいか。銀ちゃんは少々シャイであると聞いてはいたが、うつわや魚の話を振ればちゃんと打ち解けてくれる。朴訥な風情でぽつりぽつりと語る銀ちゃんと、この不思議なまったりした鮨は相似形のような気がした。鮨は人なり。

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 噂では中里さんもこの店(彼に?)にぞっこんらしく、店で酔っぱらっては書を気まぐれに書いたり(カウンター正面に飾ってあった)、うつわを気前よくくれたりするのだそうだ。「うつわは料理を盛ってこそ完成する」と常々語っている中里さんだから、銀ちゃんとこはすぐにそれを具現できる実験室のような場所なのかもしれない。なんともうらやましい環境だが、それも彼の人柄ゆえのことだろうと思う。江戸前のスタイルをとってはいるが、使うネタはほとんどが地の魚。当然、アラやノドグロ、博多でも味わったマグロの小さいのが出てきた。銀ちゃんの握り。いっぺんでファンになる。

 聞けば、定休日には博多へ、東京へもちょくちょく出稼ぎに出るらしい。この鮨が東京で食べられるのはうれしいが、やはり本拠地であるここまで食べに来たいと思う鮨である。唐津。もう何回でも訪れたい土地になった。

2014-09-27 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

「洋々閣」でふぐ三昧

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 十年越しである。大昔、有田焼き取材という仕事があり月曜スタートという予定だった。それなら週末を利用して前乗りできる!とばかり洋々閣に予約を入れたが、取材が火曜日からとなったのであえなくキャンセルの憂き目にあった。それからも何度も唐津行きを目論むも、タイミングがなかなか合わなかった。今回、金曜日に博多に入れば、土曜日泊まって日曜余裕で再び博多入りができることに気づき、即メールで予約した。

 条件はなかなか厳しい。まず、この時期にお一人様対応をしてくれるかどうか。ふぐも通常はお二人様からであろう。ところが、お一人様OKといううれしい返事をいただいた。さらに、ひとりでふぐというのは難しいでしょうかと問うたところ、女将さんから「フグは普通はお二人からですが、その日は他にもフグご希望の方がありますので、ご用意いたしましょう」という太っ腹な返事をいただいた。何事も言ってみるものである。

 洋々閣があるのは東唐津。玄界灘をのぞむ唐津湾と松浦川にはさまれた細長い砂州の切っ先に位置し、対岸には唐津城、背後には名勝虹の松原が延々と続く絶好のロケーションである。創業は明治26年、120年の歴史を持つ。

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 外観はその歴史を物語るかのような堂々たる佇まいである。だが、決して居丈高な印象はない。むしろ、おおらかな質実さが滲み出ているような雰囲気がする。石畳が敷き詰められた玄関で案内を請うと、すぐに宿の人が出てき、部屋に案内してくれる。よく磨きこまれた木の廊下。歩くとみしりみしりと宿の歴史が鳴る。長い渡り廊下の下には池があり、鯉が泳いでいる。二階の部屋に通された。窓からは枝ぶりの見事な松が植わった素晴らしい庭が見下ろせる。ほっとひと息つくと、まだ誰も入っていないお風呂をどうぞと勧められた。檜の壁で黒御影の浴槽のお風呂はすがすがしく、誰もいないので少し泳いでみたりする。(余談だが、旅館や温泉では泳ぐ。何歳になっても泳いでしまう)風呂からあがり、浴衣姿で手入れの行き届いた庭を散策する。1600坪の敷地に松は100本近く植えられているそうだ。

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 やがて時分どきになる。いよいよふぐ尽くしである。部屋で腕組みしつつお大尽気取りで待っていると、仲居さんが「お待たせました」と料理を運んでくる。先付けのなんと美しいことか。そしててっさの厚みを見よ。これをひとり占めできるのである。日本酒は佐賀の地酒を選んだ。 すべてのうつわが中里隆さん、太亀さんの手になる。目にも彩な伊万里の色絵や赤絵にくらべると、唐津は質実剛健な武士のような佇まいと表現しようか。その魅力は、余剰を削いだ端正さにあると思う。八寸は潔い白磁の皿。てっさが盛られているのは柔らかな枇杷色になった粉引の皿。青竹の箸が添えられている。ふぐの皮は灰釉の皿に、唐揚げは絵唐津の皿に。どのうつわもふぐの力強さをぐぐっと引き立てている。ふぐは玄界灘の荒波を泳いでいた気の荒い連中である。歯ごたえも向こうっ気もとびきり強く、一筋縄ではいかない魅惑の弾力である。当然のように旨い。ひとりでいるのをいいことに、うはうは、はふはふ、むしゃむしゃ、ぱくぱく、ときどきがぶがぶ。やがててっちりの鍋と素材が運ばれてくるが、この時点でもうかなり満腹である。しかし、てっちりを平らげた後には、ぞうすいも待っているのだ。気を取り直しぞうすいへの準備をする。フィナーレのぞうすいは、仲居さんがだしに米を投入し火加減を調節しつつ、かき混ぜながらつくってくれる。ふぐの滋味をあますことなくはらんだ極上の和風リゾット。その美味なこと。ああ、あかん。全部、平らげてしもうた。

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 冬は、ふぐだけでなく、あら尽くしという名物もあるようだ。次回は、あら尽くし。いや、その前に春から秋にかけてはおこぜが絶品だと言う。一年を通して、魚好き、うつわ好きを惹き付けてやまないコンテンツが充実している洋々閣。しかも時期によっては本家本元の隆太窯より充実しているという隆太窯ギャラリーもある。中里隆さん、太亀さんだけでなく、お嬢さんの中里花さんの作品も展示販売されていた。あれもほしい、これもほしいで、久々に爆発したことは言うまでもない。十年待った甲斐があった。

2014-09-26 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

博多「ロイヤルボックス」

 こちらは、博多中州を代表する名門クラブである。女ひとりでへらへら行くところではない。これには理由がある。

 松岡正剛師匠が折につけ、博多に凄い伝説のママがいて、じゃんけん名人だと言う。絶対に負けないと言う。ママとじゃんけんしたさにみんな通うと言う。その上、「中州通信」という博多発信の情報誌を30年近く発行し続けてきた人だと言う。今も中州でリンドバーグという航空スナックとロイヤルボックスというクラブを経営していると言う。師匠が凄いと太鼓判を押すのだから、そのママは確かに凄いのだろう。いつか会えるといいなと思っていた。

 ところがである。昨年6月にそのママと師匠のトークセッションが博多で行われることとなったのである。好機である。何が何でも行かなければならないのである。タイトルは「書物の誘惑、女の魅力」である。

 そしてその日、とうとう私はかぶりつきでママの話を聞いたのである。粋な着物姿に博多弁。もうすっかり魅了されたのである。その日師匠はトークの第二部がありそれが終了した後ママから電話があり、みんなでママの店「リンドバーク」にお邪魔して実際にママとじゃんけんをする機会に恵まれたのである。素人にしては頑張って持ちこたえた方ではあるらしい。だが、二度挑んで、あえなく敗北した。以来、博多に行く機会があるなら、絶対にもう一度ママに逢いに行こうという野望を抱いていた。

 その好機が訪れた。吉富寿しの後、迷わず中州に向かったのは言うまでもない。

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 リンドバーグは正式には航空スタンドリンドバーグという。パイロットだった叔父上から受け継いだという店内は、飛行機の模型や木製のプロペラなどが飾られ、キャビンアテンダントの装いの女の子たちが迎えてくれる。が、この時間ママは隣のロイヤルボックスにいると言う。店の女の子になぜここに来たかを説明しながら、スコッチを飲んでいた。するとまもなくママから電話が入り、ロイヤルボックスの方においでと言う。女ひとりで行っても大丈夫ですかと訪ねると大丈夫だと言う。ならば行くまで。だが、さすがに中洲の有名クラブである。ボックス席は凄い活気である。が、左奥にカウンターがあるのでホッとする。シャンパンを飲みながらママを待つ。ついでに、リンドバーグの女の子たちが何度もフレンチトーストがとてもおいしいんですよ〜帝国ホテルのシェフもまいった味なんですよ〜一度食べてみて〜と何度も言っていたのを思い出し、カウンターのバーテンダーにその話をすると隣の厨房から出前できると言う。ならば、持って来てもらいましょう。ということで、噂のフレンチトーストを食したのである。

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 ふっくらと黄金色に輝くフレンチトースト。てっぺんにはパウダースノーのような粉砂糖がかかっている。ひと口食べて驚いた。しっとりと肌理の細かいなめらかさ。ほとんどプリンである。悪魔の味である。深夜というシチュエーションもその悪魔度を高めてくれたのである。いやあ、まいった。(ママには深夜にそんなもん食べたらいかんばいとお説教されました・・・)

追記

 ママ、ママと私が呼んでいるその人は藤堂和子ママという。日本一じゃんけんが強いことで知られているのはもちろんだが、私が注目するのは人を惹きつける力と人を見る目に並々ならぬ能力をお持ちであるというところである。同時に長年経営者としてたくさんの人を率いてこられたという点でも、卓越したリーダーシップが備わっている方でもある。できるものなら、半年くらいママのところで修行したいと思えるほどの吸引力なのである。もう大ファンである。考えてみれば博多に行くのと、東京に行くのとさほど時間は変わらないのだから、通いたいとは思うのだがなかなかままならない・・・・

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2014-09-25 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

福岡「吉富寿し」

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 最高のファーストインプレッション。偶然が重なり、こちらを最初に訪れたときのことだ。四年前の夏だった。外観がそれとはわかりにくいのでさんざん探しあぐね、ようやく見つけて中に入った。物腰の柔らかなご主人が、「いらっしゃい。おなかすいたでしょ」とにこやかに微笑んだ。はじめての店ではこちらもそれなりに身構えており緊張感があるものだが、ご主人のこのひと言で気持ちがすーっと店になじんだことはよく覚えている。

 古民家を少しずつ改築、改装し、古い建具なども効果的に使い、趣味の世界をしつらえている。数寄者の離れを訪れたような独特の佇まいは、私の数寄ともかなり一致する。その空間に古伊万里や唐津、李朝の壷や皿だけでなく、パリの蚤の市で買ったというデルフト風の白い皿などをミックスさせた感覚は、そうとうなうつわ数寄であると見た。鮨は玄界灘や対馬沖でとれた魚にほどよく仕事をした独特のもので、「美味しいですね」と言うと「博多前ですからね」と誇らしげな表情。

 博多前。その言葉はマジックワードのように私の記憶に刻まれた。

 江戸前とは、文字通り江戸の前にある湾でとれた魚介類を使うことを指す。本来は漁場を示す言葉であったというから、博多前という言い方は間違っていない。博多前、大坂前、兵庫前、加賀前、讃岐前、備前前・・・・。全部正解だ。むしろ、そういった名称を冠すれば、その土地で昔から親しまれている魚の種類や食し方も際立つし、その土地なりの豊かな色が出るのにと思ったぐらいである。

 今回は久々にその博多前である。鮨はもちろんだがあの柔和なご主人にももう一度逢いたい。ところが長いあいだ、博多を訪れても夜食事をする機会が見つからなかった。今回、日曜の夜の松岡師匠の講演会に行くと決めたとき、週末だしどうせなら金曜から行けば吉富に行けるということに気づき、決行することとした。

 四年のブランクがある。だけど、店に入ったとたん、ああこの空間だったな、と確かに思う。懐かしいような妙に落ち着くような居心地のいい空間は健在である。前と同じカウンターのいちばん右端に座る。余談だが、鮨屋ではカウンターの端っこが大好きである。

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 突き出しに出たのはふぐの煮こごり。むっちりしたゲルの中に強靭な歯ごたえの皮が潜んでいる。そのタフな感じはさすがに九州に来たという実感があり、にやり、とする。続いて、焼き穴子、鮟鱇の肝。たこのやわらか煮。どれもていねいかつ繊細な仕事がしてあり、ご主人と同じような優しい空気をまとっている。酒もぐいぐい。ここで、もう一度ふぐの煮こごりを所望するも、すでに売り切れ。こういうの無粋なんだよな、きっと。でもそのかわりに出してくれたのは、よこわ。厳密に言うとつばすとよこわの間くらいの大きさで玄界灘でとれるのだという。ういういしい脂の乗りかたはさすがに近海もの。刻んだ大葉との相性もよろし。またしても酒が進む。そうこうしているとあたたかな一品が出された。そろそろ握りのタイミングである。

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 前回来たときは夏だったが、今回は豊穣の冬。のどぐろの炙りとふぐ、そしてアラが一緒に食べられるのは北九州エリア以外ではきっとかなわない。アラを食するのは今回がはじめてだったが、こりっと淡白なのに噛み締めるとじんわり滋味がある。同じような魚にクエというのがおり、よくクエとアラは同じであるという人もいるが、厳密には別の魚であるらしい。初心者の私は、まだクエもアラも味の差異はよくわからないが、荒々しい玄界灘で培われたであろうアラの手強い身の締まり具合が瀬戸内海の鯛のそれとはまったく別物であることはわかる。どうや、食べてみ。食べるからには、ちゃんと噛みしめなあかんで。そうアラが挑んでくる感じ。頑健な歯を持っていてよかったとつくづく思った夜である。

 さすがの博多前。今回もいろいろ勉強させてもらった。それにしても、やっぱり関西やお江戸で食べられないネタがあるから、いろんなところで鮨に行くのはやめられないのである。

2014-09-24 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

浅草喫茶「アンヂェラス」

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 年に一二回ほど浅草公会堂に歌舞伎を観に行くことがある。その道すがら、ずーっと気になっていた店があった。洋菓子喫茶「アンヂェラス」である。レトロな店構えと、チに点々という仮名遣いで、古くからやっている店であることがわかる。店の名前がついた小さなロールケーキは、雑誌でも何度か目にしたことがあるし、かの池波正太郎や太宰治、川端康成などの文豪も通ったと聞く。一度くらいは食べてみたくなる。

 一人だったのですんなりと三階席に案内された。一階のショウケースで目移りしたが、食べるのはやはりそのロールケーキにした。ホワイトチョコレートをコーティングした「白アンヂェラス」と、ダークチョコレートの「黒アンヂェラス」がありどちらにするかでも迷ったが、黒にした。ココア生地のスポンジにバタークリームが挟まれている。バタークリーム!ちょっともったりしていて、口どけが独特なあの感じ。なんと懐かしい味だろう。子供の頃のデコレーションケーキといえば、たいていはバタークリームを使っていたものだった。その後生クリームの出現ですっかり忘れられた存在になってしまったが、たしかに我々世代はこの味で育ったのだ。今となっては特別に美味しいものでもないが、逆に今ならこれでじゅうぶん事足りる。

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 むしろ、最近の洋菓子がリッチすぎるのだ。今や職人がパリで修行するのは珍しくも何ともないし、贅沢な素材にこだわるのもあたりまえという状況がある。どこそこの放し飼いの鶏のたまごだとか、おフランスの高級バターとか、有名牧場の搾りたて牛乳とか。ケーキ職人はいつしかパティシエと呼ばれるようになり、本場顔負けの技術と厳選された素材でつくられたケーキは気取った名前をつけられ、宝石のように美しくショウケースに鎮座する。たまに食べるとその美味しさに感動はするけれど、なんだか最近ツーマッチな感じになってきているのも事実である。味が濃厚すぎるし、何より高カロリーでもある。食事そのものが高カロリー化しているのに、あのリッチなケーキたちを心から美味しいと味わって食べる時間など日常生活のどこにもないのだ。食べてしまうと食事が美味しくなくなるというアンビバレンツ。

 黒アンヂェラスを食べたとき妙にほっとしてしまったのは、そういうことだ。サイズも小ぶりで、くどくなく、そのうえ思い出のバタークリームの風味。懐古趣味ではない。洋菓子はもしかすると、本来のデザートという立場を超え単独で進化しすぎてしまったのかもしれない。そんなことをレトロで少し骨太なインテリアの中で思った。

2014-09-23 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

宮島岩惣の「会席料理」

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 松岡正剛師匠を塾長とするハイパー企業塾の合宿。最初案内を見たとき小躍りした。宿は宮島の岩惣である。創業は安政元年。道行く人の憩いの場としてもみじ川に橋をかけ渓流に茶屋をもうけたことから始まり、厳島神社に参拝する人々のために明治時代には旅館となったという。大正天皇や昭和天皇、今上陛下だけでなく、朝鮮李王世子殿下、英国コンノート殿下、愛新覚羅溥儀満州国皇帝などのやんごとない方々、明治には伊藤博文、西園寺公望、桂太郎、後藤新平、大隈重信などの錚々たる政治家や夏目漱石、森鴎外などの文学者、昭和になってからは山本五十六や吉川英治、岸信介、池波正太郎、はたまたヘレンケラーなども宿泊しているというではないか。まさしく老舗中の老舗である。宿の風情も周辺の景色も、そして何より夕食がとても楽しみになってきた。

 しかし、その考えは少々甘かった。
 
 宿に着き、旅装を解いて一服した後、大広間に集合すれば、それはそれは期待感満載の宴のしつらえである。ところが、ハイパー企業塾とネーミングされていることからもお分かりのように、食後には再び講義があるのである。当たり前といえば、当たり前ではあるのだが、酒は講義の後の夜の部までお預けとなったのである。がっくりとうなだれる。恨めしそうに師匠の方に視線を送るが遠すぎて気づいてももらえぬ。わかっている。よくわかっている。遊びに来ているわけではないのだから。夜の部にはしこたま飲める。ちょっと順番が違うだけ。うん、うん。と自分で自分に何度も言い聞かす。

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 それにしても、さすがに広島である。さわらの造りや穴子の白焼き、山盛りになった焼き牡蠣など、瀬戸内海の幸がズラリと並んでいる。宿の料理長による本格懐石はさすがというべきレベルで、たしかにここに酒があったらなし崩し的に杯が進んでれろれろになってしまうことは一目瞭然である。気を取り直し、“おちゃけ”で誤魔化しつつ、久しぶりに食事そのものを楽しんだ。不思議なもので酒がないと、造りも天ぷらもそのまま単独で食べるというよりは、やはりかたわらにはごはんが欲しくなる。醗酵させた酒であれ、炊いたものであれ、和食にはやっぱり米が合うということか。カタチを巧妙に変えた同じ素材が、食のオープニングとフィナーレを分担している面白さ。

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 素面でみっちり講義をこなした後、今度は離れである「錦楓亭」に場を移し夜咄が始まった。外は雪がちらつきはじめた。よい風情である。食事のとき飲まずにいい子にしていたご褒美だろうか。大好きな「獺祭」が供された。山口の隣の県だけのことはある。ひとりでうはうはしながら、部屋が暗いのをいいことに、茶碗にどぼどぼ注いでぐいぐい飲む。しかし、やっぱり私にとっては日本酒は食前酒であり食中酒である。食後に飲むと少々勝手が違う。

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 酒やごはんほど、食べるアトサキ(順番)が嗜好によって分かれるものもない。別に厳然とした飲み方、食べ方のルールがあるわけではないから、家族構成や家族の嗜好によって好みはまちまちだと思う。私はどちらかといえば、おかずを楽しみながら飲みたいタイプ。そして最後はごはんでシメる。人によっては、ごはんを食べながらでも酒が飲めるという人もいるし、酒を飲んでいるときはまったくごはんを食べないという人もいる。一方で酒を飲まない人は、最初からごはんがないとおかずが食べられないという。

 作法に縛られる茶懐石では、最初の飯(だいたいひと口)と汁が終わるやいなや、向付を食するためにすぐさま酒が供される。酒は三献といって、向付、焼き物、八寸それぞれに対応して出される。最後にはもういちど飯と香の物で茶漬けにするのが一般的だ。ごはんは最初、その後酒が振る舞われる。逆に会席料理は、出発点からして饗応料理であるため、酒は先付けとセットのように出される。こちらは最後にごはんが出てくる。かように同じ和食の世界でも、どういったシチュエーションかによって酒とごはんのアトサキが変わっていくというのがなかなか面白いと思う。それにしても今回のアトサキは、やっぱりそうとうにハイパーだった。

2014-09-22 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

広島のバー「KAWASAKI」

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 広電にすっかりハマってしまい、鮨「もち月」を出た後も迷わず舟入町から広電に乗った。とりあえず繁華街に行ってどっか良さそなバーでも見つけ、2〜3杯飲んで帰りたい。十日市町で広島市の中心部を走る電車に乗り換え、胡町というところで降りた。土地鑑はまったくない。目の前に広島三越があったので何となくこのへんかなという直感である。新天地というところから一本東に入るとそこは流川というエリア。風俗店や風俗案内所が多く、あまり女ひとりでふらふらするところではないと気づいた。だが、友人が広島へ行くならここのお好み焼きがおいしいよと教えてくれた「八昌」を見に行く。鮨をたらふく食べた後なのでもう入るわけはないのだが、マーキング体質というのかとりあえず店をチェックしに行かずにはいられない。

 それにしても流川というエリアはかなり妖しい。後で知ったのだが、ここは中国地方随一の歓楽街なのだそうだ。奇しくも広島を訪れる直前にWOWOWで「仁義なき戦い」を延々放映しており、何本か観たせいで脳裏にはあのテーマソングが鳴り響いており、無意識に肩で風切って歩いている。すれ違う威勢のいい男性は皆菅原文太や松方弘樹に見えてしかたがないし、店先に立つ黒服は全員がヒットマンではないかとさえ思えてくる。ほっほほ。ワタクシは三代目・姐。など馬鹿げた妄想を楽しみながら、満席の「八昌」を外から物色し、この辺には感じのよいバーはないかもと思いながら歩いていると、薬研堀という通りに出た。薬研堀。聞いたことある名前だ。七味唐辛子・・・。

 そう、七味のことを薬研堀と言うのだった。反射的にうどんが食べたくなったが、ここは広島。粉モンを食するなら、やっぱりお好み焼きだろう。しかし、それはなんぼなんでも、さすがの私も今は無理じゃけん・・・。

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 その薬研堀を歩きながら、ふと左手を見やると、一箇所だけ雰囲気の違うレンガ造りのビルが佇んでおり、なにやら重厚な感じの扉がある。外にはKAWASAKIとだけ入った看板。むむ、ここは。もしかして。長年生きていろんな場所でへらへらしていると、何となく自分好みの店は直感でわかるようになっている。意を決して扉を開く。

 ビンゴ!

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 そこは、きわめてオーソドックスなバーなのであった。カウンターに入っているマスターも、すこぶるつきの正統派バーテンダー。店内は重厚なオーク調でまとめられてい、中国磁器のランプなどもさりげなく置かれた空間は、外が薬研堀であることを忘れさせるほどのクラシックな別世界。しかもスコッチの品揃えも充実している。愛酒ラガヴーリンもある。もちろん煙草も吸わせてくれる。

 「どちらからおいでですか」と問われ、神戸から来たと答えると、昔の神戸のバーの名前が出るわ出るわ。「ルル」「YANAGASE」「アカデミー」・・・。かつて何度も訪れたことがあるのだそうだ。「ルル」はたまたま経営されていた方が飲み友達の叔父様にあたるとかで昔からよく地元のバーで話題に上った店。「ルル」が店仕舞いしたときたくさんストックしてあった年代物ウィスキーの何本かは、その飲み友達の縁で私のよく行く近所のバーにある。レアな一品として、サントリーが税金をある一定額収めたときの記念すべき年につくったオリジナルウィスキーがあったことを思い出す。そのボトルには佐治敬三さんの直筆サインが入っていて、私もひとくちだけお相伴にあずかったことがある。「YANAGASE」も「アカデミー」も、今もたぶん(長年行ったことはないが)現役のバーのはずである。

 そんな神戸のバーの話で盛り上がり、気持よく杯を重ねた。後で仕事でよく広島に行くという友人にここの話をすると、彼は「二軒目は我々もKAWASAKIが定番じゃけん」だって。それなら、最初から聞いとくんだった。いや、そうではない。妖しげな薬研堀をさんざんうろついた挙句に自力で発見したという、その道行こそを大事にすべきなのだ。

2014-09-21 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

広島鮨「もち月」

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 鮨(と歌舞伎とシャンパン)のために働いている。

 土日と松岡正剛師匠のハイパー企業塾の合宿があるので、前乗りである。広島に行くのは子供のとき以来である。ひとりである。鮨を食べなければいけない。ネットで探す。すると何軒か、これはという店が出てきた。長年の経験上、なんとなく旨い店は匂いでわかるようになっている。よし、ここに決めた。予約する。9時閉店となると7時には入店しなければいけない。会社を少し早めに出て新幹線に乗る。

 グーグル地図によると、その店は広島の繁華街からは少し離れている。駅前のホテルに荷物だけ置き広島駅から在来線に乗り換え、横川という駅で降りた。グーグルで見ると最寄りまで市電が出ているらしい。横川の駅を出ると、広電の横川駅がすぐ目の前にあった。出発寸前の電車に飛び乗ったが、どうやってお金を払うのかがわからずに少々パニックになるのが我ながら可笑しい。しかし、市電は妙に楽しく、まったく知らない街を探検している気分になれる。これぞ格好のヴィークルだ。

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 舟入町というところで降りる。目的の店「もち月」は歩いてすぐ。店に入ると、地元の常連客でぎっしり。アウェイ感満々の雰囲気で、闘志がわいてくる。日本酒は地元の賀茂鶴の純米吟醸。少々甘口だが、その土地に行けばその土地に従うというのが作法である。むしろ、こんな酒で鮨を食べるのだなという発見があるので大歓迎だ。大将が握っているカウンターの後ろには、片岡球子の富士山の絵。「お好きなんですか」と問うと、お客さんにいただいたとの声。だけど、ちょっとしたこういうものがカンバセーションピースとなってくれる。肝心の鮨は、やはり広島でしか食べられないネタが秀逸である。たとえば、穴子、たこ、牡蠣、そして驚いたのは鰆である。せいぜい岡山、児島、高松くらいでしか食べられないものと思っていたが、さすがに瀬戸内海は地続きである。広島にもあるのだ。軽く炙ったそれは、紛れもなく私の大好きな鰆であった。一通りネタが出尽くしたところで、今一度穴子と鰆を追加したのは言うまでもない。

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 カウンターでは広島弁が飛び交い、なにやら人生相談も始まっている。が、その妙に深刻な内容も広島弁で語られると、2時間サスペンスのドラマのようで面白くもあり、哀しくもあり。それを肴にまた一杯。これだから知らない土地の鮨屋に行くのはやめられない。

2014-09-20 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

芦屋の料理屋「仁」

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 もう十年以上になるだろうか。出不精の親友と誕生日ディナーなる習慣をつくっている。彼女の誕生月が12月、私が1月で近いこともあって、要は年末と年始の誕生日に近い日に食事会を強制的にやっている。ここのところ圧倒的に鮨か和食に行くことが多い。夙川、芦屋あたりで良い店を探すと言う意味もある。5、6年前に連れて行ってもらった店は星をとり移転して今や予約が取りにくい店になったし、今はなくなってしまった山の手の料亭にいた人がやっているという店にも連れて行ってもらった。阪急だけでなく、JRにも阪神沿線にも名店は多い。

 今回は阪急芦屋川。阪急の線路を北へくぐり、西へ曲がると昔からの古い商店街がある。和菓子屋さんやお好み焼き屋さん、揚げたてコロッケを売っているお肉屋さんなどが点在する生活に密着した庶民的なエリアである。正式には芦屋山手サンモール商店街という。ここが最近、オーガニック系のカフェとか雑貨屋さんとかがぽつぽつとでき始め、活気づいているらしい。夜なのでその片鱗は感じられなかったが、昔ながらの商店街が若いオーナーによって復活するというのはうれしいことである。

 そのサンモール商店街から一本路地を山側に上がってすぐ右にその店はある。うん、ここはきっと旨いだろうと思える店構え。中に入ると正面にカウンター。左手には大きなテーブル。地元の人たちであろうわりと年配のグループが盛り上がっている。カウンターにも中年のカップル。客層が大人ということは、当然料理への期待が高まる。

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 まずは純米吟醸の「福袋」というめでたい名前の酒で乾杯。赤い酒器がめでたさを増幅してくれる。最初の二品はあったかなすり流しとあんかけ。これだけで一合が空いてしまい、お造りのために「鳳凰美田」を注文する。小林酒造のこの酒は最近注目しているひとつである。鯛もひらめも「いかって」おり、これでまた鳳凰美田が進む。たこの柔らか煮も関西のテイスト。むにゅっとした歯ごたえがたまらない。焼き魚の上に盛られているのは、しんじょよりもっとエアリーな食感の山芋。こういうのチャレンジングでよいな。焦げ目がいやがおうにも食欲をそそる。「松の司」をたまらず注文。そしてメインは鴨ロース。中が半生になっている私好みの火の通し方。テンポよく出されるので、酒がうまい具合に進み、気持よくいただいた。

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 全体として端的にまとめられた上品な仕立て、という印象を受けた。けっして派手さはないが、どの皿もひと口いただくと真面目で誠実な仕事をしていることがわかる。使っているうつわや酒器にもなかなかのこだわりがある。流行り廃り関係なく地元で愛されるのは、こういう店ではないだろうか。コストパフォーマンスもなかなかよいらしい。

 こういったレベルの店が生活圏内にあるというのが、阪神間の強みである。海と山に挟まれた南北わずか7キロくらいの街に阪急、JR、阪神電車が平行して走っており、阪急沿線には住宅街の中にひっそりと、 JR沿線なら昔ながらの商店街の近くに、阪神沿線だと高架下のようなところにそれぞれのエリアの持ち味を活かした店が点在している。三つの路線を行き来するのは単純に南北を移動するだけなので、みんな状況に応じていろいろ使い分けているようだ。私も朝はJRで大阪まで出て(そのほうが早い)、帰りは阪急で帰るという悪い習慣(定期を持たないという)がついてしまっている。

 平日、芦屋で途中下車する機会はなかなかないが、和食も鮨もまだまだ知らない名店がこのエリアにはたくさんありそうだ。

2014-09-19 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

一柳の「新幹線にぎり」

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 鮨とシャンパンと歌舞伎のために働いている。とくに鮨と歌舞伎は私の場合、おおむねセットになっている。

 新橋演舞場で新春花形歌舞伎「寿三升景清」終演後、予定では今年の初銀座鮨に行きたかったのだが、翌日神戸で用事もあったし、終演が8時だったので、無理せず帰ることにした。こういうとき、銀座のお鮨やさんにテイクアウトを頼む。今まではちらし鮨だった。もちろん銀座の鮨屋だから、ただのちらし鮨ではない。最初、頼んだとき、ふたをあけると一面の黄と赤。たまごと海老がびっしりと敷き詰められてい、食べ始めてもっとびっくりした。たまごと海老だけかと思っていたら、中にはあなご、あわび、こはだがゴロゴロ入っているのである。ソー・ゴージャス。以来、中途半端な時間とか鮨に行くほどの気分でもないから今日は帰ろうか、てなときにテイクアウトするようになった。「新幹線チラシ」といえば、この店では通じる。

 で、この日はなんとなく握りが食べたくなった。

 そうだ、握りのテイクアウトもありやんか。なわけで、お初となった新幹線にぎり。ふたをとったとき、思わずおおうと声が出た。なんという美しい盛りつけ。握りの一貫一貫が葉欄の仕切りの中にお行儀よく鎮座していて、まるでショコラのアソートのようである。しっぽの長い海老を破調としてアクセントにしているあたりも心憎い盛りつけのセンスだ。もちろんお味の方も、カウンターで食べるのと遜色がない。これはちょっとハマるかも。価格は銀座価格。だけど、何で付加価値をつけるかということが、この店はよくわかっているような気がするのである。

2014-09-18 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

上原屋本店の「うどん」

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 竹清、鶴丸、懐かしの連絡船うどん、とくれば、この店を紹介しないわけにはいかない。「上原」。私にとってのうどんの原点。この店はもともとは小さな製麺所で、生家のすぐ近所にあった。子供時分は毎日この店の前を通っていたし、コロという柴犬がおりよく一緒に遊んだ。

 当時の製麺所は今と違いうどん玉を飲食店に卸すのがメインなので、店内や店先でうどんを食べるという習慣はなかったが、近所の人たちが家で食べるうどんを鍋やざるを持って買いに来ている風景はよく目にした。我が家も土曜のお昼などにはよく買ったことを思い出す。土曜の夜がカレーだったりすると、日曜のお昼は買ってきたうどんに余ったカレールーをかけ、自家製カレーうどんを楽しんだ。

 再び、ここのうどんを認識したのはずーっと後である。たしか大学生時代に、少し離れたところに移転し、セルフうどん店になったのである。その頃には、うどんを家に持ち帰るのではなく、外に食べに行くというスタイルも定着しつつあり、父などは懐かしがってよく出かけていた。帰省すると「今日は上原で玉を買ってあるから」とすき焼きの〆に入れたりもした。

 やがてさぬきうどんブームが来た。最初はそんなに注目される店ではなかったと思うが、そのうちここの旨さがあまねく知れ渡ることになり、たまの帰省時でも並ばないと入れない人気店になってしまった。しまいにはその店でも押し寄せる客をまかないきれなくなり、何年か前には広い駐車場付きのもっと大きな店になった。

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 麺は太すぎず、細すぎない、絶妙なサイズで、つるりとしたツヤと弾むようなコシがある。噛み締めると、にちにち、した小気味よい食感で、これがなんともたまらんのである。大を注文し、きつねとちくわの天ぷらを皿に取り、黄金色に輝く、透き通ったいりこだしを蛇口からじゃばじゃばかける。一日三食、これの繰り返しでもいいとすら思う旨さである。馬鹿馬。なにより、長年食べ慣れた味わいでもある(ような気がする)。

 なので、やはり帰省するとやはり一度は食べたいうどんなのである。かつて生家があった土地の隣には銀行ができているし、近所にはマンションも立ち並び、道路をはさんだ向かいには大型の店舗もできすっかり様変わりしてしまった。それだけに、唯一昔と変わらないうどんがあるということは、どれだけうれしく、ホッとすることか。

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 讃岐の幼児語でうどんのことを「おぴっぴ」という。口の中でぴちぴちとうどんが跳ねるその様をふるさとの先人たちはなんと絶妙なオノマトペイアにしたことか。上原のうどんは、私にとってのおぴっぴ。唯一無二のソウルフードなのである。

2014-09-17 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

宇高連絡船の「うどん」

連絡船

 連絡船うどん。

 いったい、どれだけ食べただろう。

 高校は倉敷市のミッション系女子校。寄宿舎に入っていた。土曜日の午前の授業が終わると、岡山を経由して宇野まで在来線で出て、宇野から宇高連絡船に乗り、毎週のように帰省した。約2時間あまり。若い盛りであるから、連絡船に乗る頃には微妙に空腹になっている。いりこだしのぷんといい匂いに誘われ連絡船のデッキに上がると、そこにうどんの販売所があった。

 高校一年のまだ純朴だった私は、最初は遠慮がちにおずおずと注文したように思う。デッキで立ったまま食べるのも、少々憚られた。しかし、そこは場数というものである。毎週のように頼んでいるうちに、連絡船でうどんを食べるのが習慣化してしまったのである。いつしか、乗船しても船室には入らず、デッキに直行。うどんを注文して丼を持ち、甲板の椅子に座って食べることがささやかな楽しみになった。晴れた日の夕刻の瀬戸内海の美しさを発見したのも、うどんを食べながらだ。どこまでも青く晴れ渡った空、おだやかにたゆたう瀬戸内海。夕陽が島なみを少しずつ茜色に染めていく。カモメが啼きながら、連絡船がつくる波しぶきを追いかけるようにずーっとついてくる。ときどきは、うどんの切れっぱしを放り投げてやる。何十年も前の光景は今もありありと思い出せる。

 連絡船といえばうどん。この習慣は、神戸の大学に入っても頻度は極端に減ったがそれでも続いた。連絡船でうどんを販売していたお兄さんは、もちろん私のことをしっかり覚えてくれており、大学生になってからはほとんどただで食べさせてくれるようになった。就職してからはもっと頻度が少なくなったが、あるとき彼は私を見て「ほんま、大きいなったなあ」としみじみとため息をつき、またしてもただでうどんを食べさせてくれた。その後彼は出世してグリーン船室長になり、当然のように私をグリーン船室に乗せてくれた。もう彼の名前も覚えていないし、連絡船が廃止になってからは会ったことすらない。元気でいるだろうかとときどき思う。

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 高松駅の構内に連絡船うどんという店ができており、連絡船のあの味を引き継いでいると言うふれこみだったがまったく別物であった。いや、あのうどんはあの状況で食べるからこそ、おいしかったのだろうと思う。連絡船うどん。青春の味である。私のからだのいち部分は、きっとあの連絡船うどんでもできている。

2014-09-16 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

鶴丸の「カレーうどん」

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 深夜のカレーうどん。なんと悪魔的なひびきだろう。

 夜の高松で食事して、ちょっと飲んで、そろそろ〆ようか、というときに行くのが鶴丸だ。ここも最初は妹に連れて来てもらった。カレーうどんが抜群に旨いという。店があるのは高松一の歓楽街古馬場町。フェリー通りに面している。もう一軒、近くにカレーうどんの名店があるのだが、いろいろ食べ比べた結果、私の好きなのはこちらである。

 オープンするのは夜8時。それから3時までやっている典型的な深夜店だ。当然、客のほとんどは〆のうどんを食べにやってくる。昼間やっているうどんは帰省した折にちょくちょく寄れるが、ここは高松に泊まって深夜までうろうろしているときくらいしか来れないので、今回は最初から〆に来ることを目論み、夕食は少し控えめにしておいた。

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 中学時代の悪友と共に、11時過ぎに入店。ビールとおでん、そしてカレーうどん。ちくわの天ぷらと卵もトッピングした。これだけでけ恐ろしいカロリーであることは承知しているが、誘惑には抗えない。うどんは細めで柔らかい中にコシがある。これがカレーだしに絶妙にからんで、たまらんのだ。旨い。馬鹿馬である。故郷の夜の味。

 悪友が、せっかくだからもう一軒の別のカレーうどんの店に行って、味比べをしようと恐ろしい誘いをする。何がせっかくだかようわからんが、当然受けて立つ。ふたりでその店に行くも、移転したのか、たまたま休業していたのか、看板が見当たらない。しかし、ふたりとも新たなカレーうどんの口になっている。すると、鶴丸の二号店ができているのでそちらはどうやと新たな提案。そちらへ向かいつつも、やはり気が変わり、もう一回鶴丸本店に行こうということになった。

 驚いたのは店の方である。先ほどカレーうどんを食べた客が、何食わぬ顔をしてまた同じカウンターに座ったのだから。何かいちゃもんをつけるとでも思ったのだろうか。何度もこちらを見ているのがわかる。(カレーうどん食べに来ただけだからね~)そして同じカレーうどんを注文。さすがにトッピングはなしの「素」カレーうどんにした。しかし、酔いもまわっているのか、この状況が可笑しすぎて笑いが止まらない。悪友は内科医。今では、私の高コレステロールと高中性脂肪を管理するはずの主治医でもある。さらには、夕食はプチ同窓会で中華を食べている。その後バーを二軒ハシゴしてワインにシャンパン、ウィスキーまで飲んでいる。

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 「一日ぐらいはええやろ」と彼。はい、一日だけならね。

 書いているうちにまたカレーうどんが食べたくなってきた。今度はいつ帰れるだろう。

2014-09-15 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

竹清の「ちくわの天ぷら」

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 高松は故郷だ。ここで生まれ、ここで15歳まで育った。実家は今もここにある。すっかり有名になった「竹清」は、私が小中を過ごした母校の国道はさんですぐ南にある。といっても中学生のときにはその存在を知らなかった。もっとも、その時代にうどんの食べ歩きなどという文化は存在しなかったし、学校帰りの買い食いも禁止されていた。むしろ県庁の東にあった「ごんな」のラーメンの方に興味シンシンであった。うどんがあまりにも日常生活にとけ込みすぎていたせいで、子どもにとってはラーメンの誘惑の方が断然勝っていたからだ。

 高校生のとき高松郊外のうどん屋に連れて行ってもらったのが、うどん外食の初めての経験であったように記憶している(連絡船うどんは例外)。大学生になり、夏休みに三越でアルバイトをする頃には、普通に外でうどんを食べるようになっていた。喫茶アズマヤ、讃岐製麺のセルフ店、名前は忘れたがブティックつねやの隣にあった小さいうどん屋・・・どれも大好きだった。セルフうどんの店が市内で目につくようになったのはその頃からではなかっただろうか。実家の近所にあったうどん屋(卸)も移転し、セルフうどん店として生まれ変わった。四国村には「わら家」ができ、帰省すると家族でよく行くようになった。

 やがて、満を持して「恐るべきさぬきうどん」が刊行された。この本がなければ、これほどのブームは生まれなかったのではないだろうか。読んでみると、知っている店もたくさん掲載されているし、何よりうどんを食べ歩くというスタイルは香川県民でさえも魅了した。私のように県外に住んでいる者にとっては、それはもうたまらなく魅力的な行為であったのだ。

 そしてある日、とうとう「竹清」の存在に気づく。

 母校の南隣。母の実家からは歩いて3分。何十年も目の前を歩いていたはずなのに、まったく知らなかった店。はじめて行ったときはわくわくした。妹は常連である。巧みなネイティブ高松弁でおじちゃんやおばちゃんとやりとりし、卵とちくわの天ぷらを注文する。そして、私はここのちくわの天ぷらにやられてしまったのである。

 うどんに関しては、正直もっと好みの店がある。だが、このちくわの天ぶらはもうどこにもない唯一無二の食感だった。外はあくまでも香ばしくカリカリ、サクッと噛めば中はふわりとどこまでも柔らかい。一本だけでは満足できない旨さなのである。自称うどん評論家の妹は、これは揚げ方に秘密があると言う。

 そこで、注意深くおばちゃんが揚げているのを観察していると、あるスペシャルなワザを駆使しているのに気づいた。ちくわを衣につけ油に投入した後も、おばちゃんは手の指を使って衣をちくわの上から何度も何度も小刻みに振りかけるのである。これによって小さな揚げ玉がちくわ表面にくっつき、独特のカリカリ、サクサクを生み出すのである。有名な半熟卵の天ぷらも同じ要領である。普通の人がやると間違いなく指をやけどするくらいの危険なワザだ。指が揚げ油の中に浸かるんだから。だが、長年天ぷらひと筋のおばちゃんは熟練によってまったく何ともない風である。

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 今回は、後悔しないようにと、ちくわの天ぷらを何本かテイクアウトした。揚げたてのレベルには及ばずとも、冷えたのはこれはまたこれで乙なものである。

 おばちゃんの健康と、天ぷら技術の後継者育成を強く強く望む。

アマゾンで「恐るべきさぬきうどん」を購入

2014-09-14 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

懐かしの「オニオンスープ」

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 オニオンスープを始めて飲んだのは、たしかもう40年近く前のことである。場所は旧軽井沢。ものすごく洗練された雰囲気の店で、内装も給仕してくれる人も上品オーラを放っていたような気がする。たしかデザイナーの水野正夫さんのアトリエが二階にあったように記憶している。まだ私は10代だったから、一生懸命背伸びして、かしこまっていた。その店でオニオンスープを口にしたのである。

 いや、その店ではオニオンスープのことをオニオングラチネと呼ぶのだった。

 グラチネ。なんというスノッブなひびきだろう。

 グラタンのフランス語読みである。まだパスタは出現しておらずスパゲティナポリタンとかミートソースしかない時代だ。オニオングラチネというひびきがもうたまらなく舶来感満載で、そこへ持って来て香ばしいタマネギの風味とグリュイエールチーズの食感は、昭和50年初頭では衝撃ともいえるものだった。以来、いろいろなところで試してはみるのだが、日本ではどんな店でも軽井沢のそれには及ばない。もちろん、初めて出会った味というのを差し引いたとしても、タマネギの焦がし方、チーズのボリューム、うつわの年季など、それを超えるものには出会えなかった。

 あれから40年近く。懐かしいオニオングラチネとニューヨークでついに出会うことができた。店の名は、バルサザール。SOHOのフレンチビストロとして予約がとりにくい人気店である。何気なくメニューにあったので、つい懐かしくなり注文してみたら、ビンゴ。たちまち記憶の奥に眠っていたあの軽井沢のオニオングラチネがよみがえってきた。まずは、ボリュームが凄い。小食の人ならこれでおなかがいっぱいになるほどのポットの大きさ。タマネギもたっぷり、グリュイエールチーズもどっさり。あまりのおいしさに、スプーンを口に運ぶのに夢中になり無口になる。以来、ニューヨークに行けば必ず訪れる店になった。そのうち、好きが高じて、バルサザールの斜め前にあるホテルに泊まるようになった。クロスビーストリートホテル。全室禁煙で普通の部屋にはバスタブがないという不便を差し引いても、目の前にオニオンスープもといバルサザールがあるというのはなんと魅力的なことか。あるときは、朝ご飯を食べに行き、オニオンスープはランチタイムにならないと提供できないと言われ肩を落とし、あるときのランチは満席でぐーぐーいうおなかをなだめつつ3時半スタートでもいいとテーブルを空くのを待つ。さほどに恋い焦がれているオニオンスープなのである。

 ところが最近東京でちょくちょく顔を出す白金のフレンチビストロでバルサザールに遜色ないオニオンスープに出会った。しっかりと炒められたタマネギだけが出せる香ばしいあの旨み。コンソメの塩加減もバターの風味もしっかりしている。もちろんチーズもグリュイエールを惜しまずたっぷり使っている。日本であの味が食べられるやんか!!もう小躍りものである。だが、どうやら冬限定メニューであるらしい。こちらもそれなりのボリュームなので、本当にお腹がすいているときだけいただくとしよう。そう心に決める。だけど、好きなものが行きさえすればいつでも食べられるとわかるのは、無上の喜びと安寧を精神にもたらしてくれる。

2014-09-13 | Posted in 千夜千食No Comments » 

 

JALの機上「サロン」

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 鮨と歌舞伎とシャンパンのために働いている。

 ひと昔前までシャンパンと言えば、バブル時代のドン・ペリニヨンは別として、モエ・エ・シャンドンとかポメリーとかヴーヴ・クリコくらいしか選択肢がなかったように記憶している。だけど、いつの頃からかヴィンテージと呼ばれるものや、見たことも聞いたこともない多種多彩なシャンパンが出回るようになってきた。この10年シャンパンも含めたスパークリング・ワインの輸入量はほぼ右肩上がりで増え続けているのだそうだ。日本のシャンパン輸入量のうち、プレステージ・シャンパン(メゾンの最高級品)の占める割合は2割近く。

 人口1人あたりのワイン消費量ではフランスの10分の1にも及ばないのに、プレステージ・シャンパンの占める割合は日本では異常に高いのだそうだ。これは欧米諸国には見られない現象らしいが、なんとなくわからんでもない。
 私はもちろん行かないが、クラブなどで飲まれる割合はそうとう多いと推察する。ウィスキーをボトル1本空けようと思うとそれなりに時間がかかるが、シャンパンは開けたら最後飲みきってしまうものである。店にとっては儲かるアイテムであり、客にとってもええカッコできる手っ取り早い酒なのである。その上、シャンパンは文句なしに旨い。酒場でのダンディなふるまいにこれほど合致した酒もないのではないかと思う。

 静かで根強いブーム定着のおかげで、シャンパンを置いているバーも増えているし、グラスでも気軽に飲めるようになってきた。ワインほど銘柄も多くないので、名前も覚えやすいし、価格設定も比較的リーズナブルである。ボトルで頼んだとしても、原価に対しそんな法外な掛け率でもないように思う。とはいえ、普段飲むのはもっぱら普及品。フレンチを特別な気分で食べに行くとき以外はボトルも、プレステージシャンパンもめったに頼まない。

しかし、だ。

 一カ所だけ高級シャンパンを好きなだけ飲み放題できる場所があるのだ。しかも「サロン」という名品を。

 さて、どこでしょう。

 答えは、JALニューヨーク線のファーストクラス。
 
 なんで私ごときがファーストに乗れるかという事情はおいおい説明するが、(というかアメックスのポイントを必死で貯めJALのマイレージに交換して片道だけでもアップグレードしてもらうという手口を使っている)ここで供されるシャンパンは、サロンとドン・ペリニヨンの2種類だ。今年はサロンは2002年という21世紀のファーストビンテージだった。で、私は徹頭徹尾、サロンを飲む。最初にファーストに(マイレージで)乗ったとき、あまりにサロンばかり飲むので最後にはテーブルにボトルを置いてくれたこともある。去年は夜食にカレーを頼むと、「まだ先ほどのサロンが残っております。お持ちしましょうか?」と客室乗務員が誘惑するので、なんとカレーを食べながらサロンを飲むという暴挙も経験済みだ。

 昔からあたりまえのようにファーストに乗っているやんごとなき人々であれば、こんな恥ずかしいことはしないだろう。私だって普通のシャンパンであれば、こんなにもがつがつはしない。だけど、サロンですもの。どうしようもない。

 毎年機上サロンを飲むために、せっせと食べてなんでもかんでもアメックスで払う。

 ところが、今年私の素行がJALにばれたのか(笑)、アメックスからポイントのマイレージ移行ができなくなってしまった。そのかわり、JALとアメックスの提携カードというのができたようである。

 アメックスをやめて、この提携カードに変えるかどうか悩んでいる。

2014-09-12 | Posted in 千夜千食No Comments »